プロフィール

私の研究 これまで・これから

仲嶺 政光

私は、教育の社会史的、社会学的な研究に関心をもって取り組んでいます。以下、私の研究経歴について述べます。

私が研究の仕事をスタートさせるきっかけとなったのは、一人の青年が記した日記との出会いでした。ちょうど1980年代から1990年代にかけて、日本では日記を素材とした〈青年〉の社会史研究(小林1983;田嶋2016など)が展開されるようになり、学生時代の私はそれらに触れて知的好奇心を刺激されました。「こんなに面白い研究があるのか」と、夢中で読んだ記憶があります。

日記の文章を理解する方法はいろいろだと思います。日記に書かれた事実をよく読んで整理するだけでも、その人の生きていた時代の日常生活がどういう特徴を持っているのか、その人の持つ思想がどういう経歴をたどったのか、など、多くのことを知ることができます。しかし、日記に書かれた事実の意味を深く読み解くためには、やはり理論的な知識を持つことが大切だと思います。

大学院に進学した私は、教育の社会史研究の理論的な知識に触れる機会を得て、日記に記された細かな事実の持つ意味を、人口動態や経済変動などの広い社会的文脈の中でどう意味づけるのか、その際、心性という概念でもって人々の心のありようや主観性をいかにして分析していくのか、という問い方があることを学びました(中内1992)。例えば多産多死から少産少死への移行という出生率の変化によって、社会における教育の見方・考え方が転回点を迎えたのはいつなのか、という論点があります。その転回点の時期は近代日本の新中間層では1910〜20年代(沢山1979,2013)とも、あるいは日本全体としてみた場合は1910〜30年代(速見&小嶋2004)とも指摘されています。そういう全体な変化の傾向を念頭に置きながら、日記などに現れる細かな日常生活のあり方を読み解いていくという、一つの理解の仕方、解釈枠組みがあるわけです。社会の動きについては、少子化だけでなく、人口移動や産業構造の変化なども重要な背景といえます。出生率の変化が統計によってカバーされた「全体」を俯瞰する視野を持つとすれば、産業構造は階級・階層的な「分化」の視野を持つといえるでしょう。そういう諸々の大きな動きの中に日記の叙述を置きなおすことによって、新たな研究の地平が開けてくるのではないか、などと考えます。

フランスの社会史研究者であるPh.アリエスは教育界に大きなインパクトを与え(アリエス・ショックと呼ばれました)、歴史研究の新しい展開を示したことはよく知られています。今のアナール派は、単一の支配的な理論といえるものはなくなったようですが、多様な手法が展開されるようなったことに積極的な意義もあるのだととらえたいと思います。私としては、とりわけ社会学の理論を積極的に用いる方向が日記の解読にとって有効ではないかと考えています。例えばP.ブルデューの文化資本論やハビトゥス・実践・界の諸概念は歴史研究を展開する上できわめて示唆的だと思い、しばしば参照しています。ブルデューの理論を継承した歴史研究としてR.シャルチエの読書の文化史があります。


  • 速見融・小嶋美代子『大正デモグラフィ──歴史人口学で見た狭間の時代』文春新書、2004年。
  • 小林千枝子「20世紀初頭の村落社会における伝統と近代的「自我」の形成に関する一考察──大西伍一の少年時代の『日記』を手がかりに」『人間文化研究年報』6号、お茶の水女子大学人間文化研究科、1983年。
  • 中内敏夫〔改訂増補版〕『新しい教育史──制度史から社会史への試み』新評論、1992年。
  • 沢山美果子「教育史研究の方法としてのデモグラフィー」『人間文化研究年報』お茶の水女子大学人間文化研究科、2号、1979年。
  • 沢山美果子『近代家族と子育て』吉川弘文館、2013年。
  • 田嶋一「〈青年〉の社会史──山本滝之助の場合」『〈少年〉と〈青年〉の近代日本──人間形成と教育の社会史』東京大学出版会、2016年。

以下は、私がこれまで手がけた研究、これから深めていきたい研究テーマです。こつこつ進めていきたいと思います。

方言講演

沖縄学の開拓者の一人として著名な伊波普猷は、沖縄本島民衆層に対し方言を用いた講演をおこなった。「血液と文化の負債」、または民族衛生講演と題した。方言講演の内容は、禁酒運動、結婚制度の改善、教育熱心の奨励だったとされる。方言講演は各地で大盛況をおさめ、きわめて評判のよいものだった。私がこの方言講演について明らかにしたいことは、(1)伊波はなぜ結婚と家族を主題にしたのか、(2)なぜ方言を用いた講演をおこなうことができるのか(これをできないという人もいる)、(3)方言を用いることによって生まれる効果とはどのようなものだったのか、(4)聴取たちはこの講演をどう受けとめたのか、(5)なぜ伊波は方言講演をやめることになったのか、である。

沖縄の方言札

沖縄の教育現場ではかつて、方言札と呼ばれるものが存在した。方言を使ったら「方言札」と書かれた札を渡され、他の方言使用者を見つけるまで持ち続けていなくてはならなかった。これにはしばしば罰が加えられた。標準語励行の手段であったといわれる。私が方言札について明らかにしたいことは、方言札とはそもそもどのような効果をもつものだったのか、という点である。方言札は標準語を教える局面を持たないので、標準語の励行に必ずしも直結しない。それでも、長年にわたって沖縄の教育現場で使用されてきた方言札には、何らかの効果があったはずである。私は、その学校現場における実態について明らかにしたいと思い、インタビュー調査をおこなっている。

学校儀礼

学校儀礼は、挨拶のような小さな形から、儀式のような大がかりなものも含め、様々に存在するといえる。学校儀礼は、教育の営みに直接関係のない脇役のようなものと考える人もいるだろう。しかし、学校儀礼は日常に秩序を与える重要な働きを持つものである。B.バーンスティンによれば、学校では、性別、年齢・学年別に分化させたり統合させたりする儀礼が発達している。これに教師-生徒関係への影響も加えることができるだろう。学校の秩序はたやすく形成されたり維持されたりするものではなく、諸儀礼の実行を通じて強化されるものである。学校文化史の研究を進める上で、各時期の儀礼的実践と秩序形成のあり方を問うことは重要なテーマだと考える。その日本的特徴(というものがあるとすれば)とはどのようなものだったのか。私は西日本の小学校を対象に事例研究をおこなったが、これに加えて日本各地の事例を拾い集め、明らかにしたいと考えている。

格差社会と各種資本

社会関係資本は、「個人間のつながり、すなわち社会的ネットワーク、およびそこから生じる互酬性と信頼性の規範である」とされる(R.パットナム)。生活困難層に位置する人びとにとって、この社会関係資本の豊かさをつかむことが難しく、孤独に陥りやすい状況が広まっている。子育てをめぐって、悩み相談などを含んだ日常的な話し相手が不在であることにより、孤独にさいなまれるひとり親家庭の保護者が多く存在する。しかもこの傾向は1989〜1992年調査のときと比べて2009〜2011年調査の時点において強まっている。話し相手は「近隣の知人」であるとする割合が減少し、きわめて個人的な資源である「親族」の割合が増加した。極端なケースとしては、話し相手が「ウチの子だけ」だと述べた方もいた。自治会活動、子ども会活動などの縮小も進んでいる。孤独な状況はどう改善されるべきなのか、考えなくてはならない問題である。今後は、文化資本(P.ブルデュー)を焦点に定めて生活困難層の現実に迫りたいと考えている。

若年層の「荒れ」

子ども・若者は「荒れ」の意識と行動が高まることがある。例えば1980年代における〈ツッパリ〉文化の隆盛があるし、1990年代以後の〈学級崩壊〉問題の深刻化などが想起される。こうして、子ども・若者はしばしば〈学校離れ〉の様相をみせることになる。これに対し、マスメディアでは、おびただしい〈青少年の凶悪化〉言説が生みだされる。ところが、こうした言説の主張するところに反して、青少年の凶悪化は統計的にはかなり減少していることが明らかになっており、マスメディアが実態とずれた論議をおこなっていることが指摘されている。また、近年の調査研究の結果をみると、2000年代以後の子ども・若者は学校を楽しく有意義に過ごしており、さらに「荒れ」の沈静化がおきているとされている。例えば「逸脱への憧れ〔社会のルールを守らないことはかっこいい〕」という意識は低下し、逆に「校則を守ることは当然」とする意識は強まった(平野孝典)。私の関わった調査研究でも、いじめ、暴力、授業サボリ、喫煙、備品損壊、授業不成立などの、学校的規律への反抗的な行動が、2002年調査から2021年調査かけて、かなりなりを潜めてきた、という結果を得た。そうした子ども・若者の「荒れ」の沈静化、〈従順化〉の傾向にはどんな意味があるのか、解釈を深めていきたい。

大学開放

日本の大学の学生は、他国と比べて20歳前後の若者たちで独占されており、25歳以上の大学入学者の割合はきわめて少ないといわれ、異様な同質的年齢構成となっている(OECD調べ)。18歳人口の減少により、日本の大学の行く末を懸念する声もある。いま、日本の大学は、社会人をひきつけ、一層多様な世代が学ぶ場へと生まれ変わるのか、それとも18歳入学者を獲得するための熾烈な大学間競争へと向かうのか、という岐路に立たされている。私は、大学開放を進めることで社会人に向けた教育サービスを展開し、前者の方向に進むにはどうすればよいのか、ということを考えている。社会人入学者の拡大を進めるにあたり、検討すべき事項が山積している。社会人は家事や職業のために多くの時間を費やすものであり、その点に特別な配慮を必要とする。高額な授業料の捻出が難しい人も多い。社会経験が生かされ、卒業後の生活が有益なものとなるような教育研究体制をどう構築するか。こうした展望を持ちつつ、社会人が往来する機会(講演会や公開講座・公開授業など)を発展させていくための調査研究が不可欠であると考える。これは公共的な性格を帯びたテーマなので、各大学の枠を超えて取り組む必要もあるだろう。

新制中学の戦後史

新制中学は、日本の学校秩序形成を考える上で重要な位置にある学校である。新制中学は、まず第一に、高校進学か就職か、あるいはどの高校に進学するか、という形で卒業生の進路が分岐する端緒となる。そうした人生の岐路としての新制中学は無選抜に地域社会に存在する多様な若者たちを一つの学校の生徒として三年間ものあいだ抱え込むとともに、卒業時に厳然たる人材配分の働きを発揮する最初の学校である。第二に、そうした多様な生徒を擁する新制中学は、学力問題、怠学、教師への反抗、暴力、非行、長欠・不登校、いじめを含む人間関係問題など教育的諸困難の多発地帯として知られる。このことは、言い換えれば、新制中学は秩序の形成・維持という課題が顕在化しやすいという特徴が見出される。第三に、秩序形成・維持の課題が他の学校段階に比べこのように相対的に重いということは、新制中学はその学校なりに望ましい校風や生徒らしさというものを築き上げことが容易ではなく、そこにきわめて多大なエネルギーが注がれる場であることをも意味している。私は、そうした新制中学に特有の難しさというものが、戦後史を通じてどのように変化していったのかをとらえたいと考えている。

全生研〈集団づくり〉理論

〈集団づくり〉は、全国生活指導研究協議会(1959 年結成、略称全生研)が考案し広めた生活指導の一つの手法であり教育論である。〈集団づくり〉は『学級集団づくり入門』という理論書が存在し、実践を支えてきている。私は、五冊に及ぶこの理論書に結実された〈集団づくり〉が1963年の誕生から今日に至るまでの長いスパンでどのような変化を遂げたのか、ということを考えてみたい。〈集団づくり〉の骨格は、班・核・討議づくりの三つの局面から成り立つものとされた。集団の発展法則の展望も三つの段階で示され、構造表と呼ばれる一覧表の中で定式化された。この運動は学級・学校内部にとどまらず、「日本の国民を集団としてしたてあげていくこと」をも目指すものだったが、その姿は今日までに大きく変化した。とりわけ〈集団づくり〉理論の大きな変化は、1990年前後のころから始まる子ども・若者の世界の劇的変貌に対応することが求められた点にあり、以後たえずバージョンアップが図られてきている。〈集団づくり〉は、その理論構成においてどのように変化したのか、その変化の背景にはどんな要因があったのか、ということの分析を進めたい。




めぐりめぐって富山へ



サンセット・ビーチ



Apple