伊波普猷は沖縄本島民衆層に対し禁酒運動・優生学的な啓蒙をおこなったことで知られています。演題は「血液と文化の負債」、すべて沖縄方言でおこないました(以下方言講演)。ここでは、方言講演の実施回数について考えてみたいと思います。
伊波は1938年に刊行された著書『をなり神の島』(樂浪書院)で方言講演を「三百六十回以上」おこなったと記しています。多くの論者がこれを参照して、方言講演は三百六十余回に及ぶものだったとし、通説となっています。しかし、私はこれについて再検討する必要性があると考えています。以下に伊波の記述をみていきましょう。
●1918年の記述:「私は目下民族衛生について縣下中を講演して廻つてゐます、既に三十ヶ所以上で試みました」糸數原主人編著『ひるぎの一葉』自家刊行(発行者浜崎荘市)、1920年、冒頭。
●1921年の記述:「三百回近くも方言の講演をしてまわつた」伊波普猷「圖書館にての對話」『圖書館報』2、1921年12月、11ページ。
●1924年:方言講演をおこなうことへの自己批判の文章を発表、伊波普猷「琉球民族の精神分析」『沖縄教育』1924年5月、11ページ。この頃方言講演の終幕か。
●1925年:伊波の上京。
●1926年の記述:「私は彼等の間を廻つて、三百囘近く民族衛生の講演をした」伊波普猷「沖縄縣下のヤドリ」『地方』1926年5月、111ページ。
●1930年の記述:「縣内を廻つて靑年會や婦女會で四百回以上も通俗講演を試みた」伊波普猷「ヤガマヤよりモーアソビへ」『民俗學』1930年1月、49ページ。
●1938年の記述:「縣内を廻つて靑年會や婦女會で三百六十回以上も通俗講演を試みた」伊波普猷『をなり神の島』樂浪書院、1938年、260ページ。
伊波の方言講演実施回数についての言及は1918年にはじまります。これはおそらく方言講演をおこないはじめた時期にあたり、「三十ヶ所以上」という記述がみられます。その三年後、1921年には「三百回近く」に回数が増加しました。1926年にも「三百囘近く」としています。
1924年には方言講演に対する自己批判の文章を発表、その後伊波は学究になることを目指して1925年に上京、とりあえず方言講演は終幕を迎えます。
ところがその後1930年の記述では、なんと「四百回以上」に数字が膨らみます。もう方言講演は終幕を迎えている段階での記述です。明らかに回数の誇張がみられます。さらにその8年後にはやや減少して「三百六十回以上」となります。
実際の回数はさておいて、この数字の揺れ動きは何を意味しているのでしょうか。伊波は正確な方言講演の実施回数を把握していなかったと思います。しかし、彼は方言講演をとにかく数え切れないほどたくさんやりこなしたのだ、という事実自体にはかなり強いこだわりがあったということを象徴しています。方言講演の誇張された実施回数からは、夥しい数の方言講演をやりきったことへの自負と達成感、そして何より飽和感覚があったと考えます。方言講演の実施回数の推移をみると、伊波はこれを十分にやりきった、もう限界だ、これ以上はできない、そういう思いがこみ上げたことを感じるのです。
方言講演は知識人の積極的な仕事としてみることができますが、同時に、どこか「危ない綱渡り」のような性格があったと考えることもできそうです。いかがでしょうか。